雑記帳。

人に言うほどじゃない思い付きを出来るだけ記録するトコロ。つまりぼくの追加記憶容量の一つ。

モテについて

lin.ee


最近電車の広告でよくみるこの方。
ゆうこすと言う、モテに特化したタレントさんらしい。
電車の中吊りは脱毛など美容皮膚科のもので、肉まんを食べるモテ仕草が書かれている。
曰く、もえそで・口を大きく・美味しそうに食べる。が大事だそうだ。なるほど。と、思った。
こんなアホか(失礼!)と思うような広告に釣られる層ならクリニックの言いなりになる可能性もある。これは上手いターゲットの振り分けだ。

思えばぼくも20代まではモテを渇望していた。
中学時代にはいじめにはあっていたものの、毎年バレンタインデーには母以外から1つはチョコをゲットしていたので、全くモテないわけではないどころか、どちらかと言うとモテる位置にいたと思うが、全くもってモテに対して満足していなかった。
どうすればモテるのかばかり考えていたし、何ならモテ方まで考えていた。理想的なモテ方は、同性からのカリスマとなった上で女性からモテる事だった。例えるならば、氷室京介2pacのような存在だ。モテの通過点として氷室京介になりたかった。しかし、当然氷室はそんなに甘い気持ちでなれるものではなく、ぼくは目の前のモテを求めて小手先のテクニックに走った。
小手先のテクニックというのは言葉通りのやらしい意味ではなく、モテそうなファッションに身を包み、DJなどモテそうな遊びを嗜むことである。

その結果ではないのだが、20代中盤はそこそこモテた。
なぜその結果ではないのかというと、ファッションもDJもモテるにはあまり関係なく、結局は数を打ったからである。所詮は打数×打率なのだ。打率が低ければ打数を増やせばいいだけの話だ。そして打数を増やすことで気が付いたのは、世間で言われる「モテそう」は実際には「モテ」にはつながらないという事であるし、さらに言うならば「モテ」は「愛」ではないという事である。少なくともぼくはそう思った。

「モテ」は「期待」でしかなく、「愛」は「信頼」なのだと思う。
「期待」がいつの間にか「信頼」に変わるまでの期間は、小手先のテクニックで誤魔化しきれるほど短くはない。

信頼さえ得てしまえば、可愛く食べようが、ぶさいくに食べようが可愛いものである。

ただし、20代のぼくはモテで良かった。ただ不特定多数とやりたいだけなら信頼は邪魔だし、モテが一番良い。ちなみに今でもたまにモテたいと思う時がある。