雑記帳。

人に言うほどじゃない思い付きを出来るだけ記録するトコロ。つまりぼくの追加記憶容量の一つ。

走る理由

www.nikkei.comランニングをするようになって15年ほどになると思う。

最初は5キロも走れなかったと思うし、10キロ走れるようになった後も、膝痛などに悩まされ、走ったり走れなかったりを繰り返した。

今ではコンスタントに毎週末10〜15キロを走る。この距離は天候や、体調、どれくらいのペースで走りたいかによって決めていて、15キロまでは無理なく走ることができる。ただし、20キロは走ったことがないし、走ろうと思った事もほとんどない。

普段から走っていることを人に話すと、だいたい「マラソン出ないんですか?」と言う話になる。ぼくは42キロ走ることに全く魅力を感じられないのだが、普段から走ることの目標はマラソンであると理解されることが多いようである。

そこで自分が何のために15年も走っているのか、先日ランニング中の音楽を止めて考えながら走ってみたのだが、よくわからない。そんな時、タイムリーに昨日の日経新聞に「なぜ走る」の記事があった。

文中には「なぜ自分を過酷な世界に浸らせたいのだろう。」とある。なるほど。マラソンは確かに過酷だろう。ただ、僕のランニングは過酷まで行かない。マラソンが熱湯風呂だとすると、ぼくのは下町の銭湯くらいだろう。

「人はかつて獲物を手にするために走ること」ともある。狩猟民族としての本能が残っており、走るというのである。

飼い犬で土を掘る必要がなくても掘りたがる犬がいる。それと同じなのか。

 しかし、もしそういう本能が残っているのなら、棒投げたり石投げたりしたいとならないのだろうか。動物園の象を見て、密かに狩りたい欲に駆られている人々がいるのだろうか。

 

いずれもぼくにはしっくりこないし、その時々で色々な願望や理由があって走った結果、もはや単純に「習慣化しちゃったからやめるのが気持ち悪いだけ」のような気がする。

 逆に走る理由を探す時期に差し掛かって来たのかも知れない。