雑記帳。

人に言うほどじゃない思い付きを出来るだけ記録するトコロ。つまりぼくの追加記憶容量の一つ。

何をしようが

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ピエール瀧はテクノのミュージシャンである。

相方の石野卓球は今でも第一線で活躍するDJである。

 

ぼくは若い頃には週2~3でクラブに遊びに行っていたので、ジャンルによる遊び方がわかっているつもりだ。

そういったぼくの独断と偏見から言えば、テクノは最も薬物と結びつきの深いジャンルだと思う。

ああいった音楽に陶酔していくと、感覚を増幅させたくなるのではないか。

 

そもそも、薬物で逮捕されるのは何故か?

理由は以下の3つだろう。

 

・ボロボロになって社会的に役立たずになる可能性がある

・突然暴れたりして、他人に迷惑をかける可能性がある

・みんながそんな感じになると、国がダメになる可能性がある

 

これはアルコールでも全く同じ現象がおこるが、今のところアルコールは容認されている。可能性の度合いの違いという事だろう。

 

アルコールと同じで理性を保ちながら薬物と付き合っている人も多くいると思う。

法律で決まっていることなので逮捕は当たり前だが、そこで人物まで否定するのはいかがなものか。

あと、やった側も簡単に謝罪するのもダサい。

楽しんだんだから、逮捕されちゃいましたけど楽しかったのでまたやるかもしれません。くらい言えばいいのに。

足の小指の謎

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先程、ランチで座敷スタイルの居酒屋にお邪魔した。

親指が少し薄くなった靴下が少し恥ずかしかったのだが、そんな事より足の小指を下駄箱の角にぶつけたのである。もちろん、悶絶した。

 

足の小指はぶつけると痛いところの代名詞と言ってもいい存在である。

たまにタンスの角にぶつけて骨折したなんて話を聞くが、大抵は激痛なだけで骨折どころか打撲にもならない。しかし、めちゃめちゃ痛い。何故か。

元来、足の小指は人間が生きていく上で欠かせない存在だったのではないかと思う。昔人類は木の上で生活していたと聞いたことがある。子供がやたら木登りしたがる、高いところを目指したがるのはその名残ではないかと追う。

その頃は、恐らく足がもっと猿っぽくて、足で木を掴んで歩いていたはずだ。そうなると、足の指は欠かせない。もちろん、人差し指や中指などのほうが活躍の場は多いはずだが、酷使するため真っ先に失いやすい。そして、最終的なバックアップとして残るが小指だったのではないか。つまり、バックアップを失っては後がなくなるので、バックアップだけは死守しましょうよという意味でのあの痛みなのではないか。

この痛みの元凶は、足の小指の関節の少なさだと聞いた事があるが、よくよく触ると関節の数は変わらない気がする。気のせいかもしれないし、ぼくだけが特殊なのかも知れないが、たかが関節一つくらいでこんなに痛みが変わるなら、ぜひとも他の指と足並みを揃えて貰いたい。または、世の中の角という角にスポンジ状の衝撃緩和剤を取り付けるよう、法整備して貰いたい。列強各国にも足並みを揃える事を強く要求する次第である。

それくらい、この痛みは凄いものがある。心臓の弱い人なら、一発で命の危機に瀕する可能性は十分ありうる。前時代のバックアップを守りたいがための警告のせいで、現代人がこんなに苦しんでよいはずはない。1日も早く、この痛みから、そして、この痛みへの恐怖から開放される日が来ることを望んでやまない。

HEY!Mr.DJ

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ぼくの学生時代(今からかれこれ20年ほど前)はDJ全盛期で、ぼくの周りもDJ、DJ、DJ、一人飛ばしてMr.DJというように、ほぼみんなDJな時代だった。

世は10万人DJ時代と言われており、まさに戦国時代の様相だったと思う。

ジャンルによって西新宿のレコ屋街に行ったり、宇田川町に通ったり、レアものなら高円寺や阿佐ヶ谷あたりにもレコードを掘り(レコードを探す事をDiGる。掘る。と言っていた)に行ったし、吉祥寺のバナナレコードや、立川の珍屋あたりにも掘りに行っていた。レコファンあたりは値立てが甘く、たまにとんでもない掘り出し物が出たりしていて、誰かが掘り当てたと聞けばみんなでそのレコード屋を隅から隅まで見て回り、レア盤を安値で買っては自慢しあっていた。

ところが、世の中はすぐにデジタル化して行き、MTRという録音機械もテープからMDになり、すぐにメモリーになった。同じ頃、CDJでスクラッチが出来るようになり、それから間もなくして、MP3をアナログ盤のコントローラーで操れるようになった。

そして、みんなが血眼で探して回ったレコード盤は、どんどんディスクユニオンヤフオクで売られるようになり、値割れがひどくなった頃、売り抜けなかったレコードは、ほぼみんなの実家でお蔵入りとなったのである。

恐らく、当時掘り返されたレコードの大部分は、実家に眠っている。少なくともぼくやぼくの周りはみんな実家に保管している。

 

そんなレコードを使って何か出来ないか、幾度となく考えた。

レコードをオブジェ化させてしまう荒業もあるのだが、当時あんなに必死で探し回ったレコードをオブジェにするのは忍びないし、結局はバーやカフェなどの飲食や、マニア向けの古レコード屋しか思いつかない。ちょっと頭をひねったところで、定額制の貸しレコードくらいしか出てこない。

あんなに必死に探し回った当時の宝物。もう一度輝かせる方法は無いだろうか。

きっと、ターンテーブルやミキサーも一緒に実家でお蔵入り担ってると思うんだよなぁ。

サブスクって言っときゃいいと思ってるだろ①

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これは・・・!

も、もはや・・・カッ!家具・・・グ・・家電付き・・の!!

 

ち・・ちん・・・ちんたい・・・賃貸物件だっ!!

 

サブスクって言っときゃいいと思ってるだろ!!

 

あ。でも家具は選べるのかも。

例え話に共感するひとの感受性

古来より、多くの偉人が例え話を使い民衆を動かしてきた。

しかし、一歩引いて見ると、心を動かす例え話は本当に適切なのか。

 

先日、とあるセミナーに参加させて頂いた際に、自発的動機を引き出しましょうと言う話の例えとして、「自ら殻を破ったヒヨコ以外は死んでしまう」的な例え話をされており、参加者の共感を呼んでいた。

しかし僕は、こう思っていた。

いや、それ卵の話だから。。。と。

もっと言えば、外から割っても適切な環境下であれば生きるから。とさえ思ったのだが、まわりは「ですよねー」オーラ出しまくりで頷いている。養鶏場でも作るつもりか。

これの言わんとすることはわかるのだが、別に卵に例えなくていい。やりたい仕事やらせた方が、頑張るよ。だけでいいのだ。

シンプルに言ってくれればいい。それが一番伝わるのだ。良い肉は、塩だけで食べるのが一番旨味を感じられるのと同じようにね。

大人の節度

https://www.google.com/amp/s/www.asahi.com/amp/articles/ASM2P4FXNM2PUTFK00M.html

 

もはや的である。

桜田大臣は何をやっても揶揄されるゾーンに入っているので、野党は突っ込みまくるし、マスコミも大騒ぎする。

3分の遅刻に対して反発して中断した時間はは四時間半である。暇か。まじで暇じゃなきゃ無理だし、やり過ぎだろ。

キモい親父がすれ違いざまにちょっと肩ぶつかって来たんで、ボコボコにしてやりました。その時の返り血でシャツ汚れたんで、仕事遅れたんですよ。

と、言われてるのと同じにしか思えない。

確かにこの大臣は失言しがちであるが、このゾーンに入っちゃった人は何をやろうがボコボコにされる。もはや逃げられない。

遡ると、サイバーセキュリティ担当大臣とパソコンを日常的に使うかはそんなに関係ないと思う。

システム担当なんだからコピー機治してよ発言に近いものを感じる。

いい加減このいじめ体質を何とかした方が良いと思う。こういうことを公然と当たり前にやっている国からいじめがなくなる訳がない。

モテについて

lin.ee


最近電車の広告でよくみるこの方。
ゆうこすと言う、モテに特化したタレントさんらしい。
電車の中吊りは脱毛など美容皮膚科のもので、肉まんを食べるモテ仕草が書かれている。
曰く、もえそで・口を大きく・美味しそうに食べる。が大事だそうだ。なるほど。と、思った。
こんなアホか(失礼!)と思うような広告に釣られる層ならクリニックの言いなりになる可能性もある。これは上手いターゲットの振り分けだ。

思えばぼくも20代まではモテを渇望していた。
中学時代にはいじめにはあっていたものの、毎年バレンタインデーには母以外から1つはチョコをゲットしていたので、全くモテないわけではないどころか、どちらかと言うとモテる位置にいたと思うが、全くもってモテに対して満足していなかった。
どうすればモテるのかばかり考えていたし、何ならモテ方まで考えていた。理想的なモテ方は、同性からのカリスマとなった上で女性からモテる事だった。例えるならば、氷室京介2pacのような存在だ。モテの通過点として氷室京介になりたかった。しかし、当然氷室はそんなに甘い気持ちでなれるものではなく、ぼくは目の前のモテを求めて小手先のテクニックに走った。
小手先のテクニックというのは言葉通りのやらしい意味ではなく、モテそうなファッションに身を包み、DJなどモテそうな遊びを嗜むことである。

その結果ではないのだが、20代中盤はそこそこモテた。
なぜその結果ではないのかというと、ファッションもDJもモテるにはあまり関係なく、結局は数を打ったからである。所詮は打数×打率なのだ。打率が低ければ打数を増やせばいいだけの話だ。そして打数を増やすことで気が付いたのは、世間で言われる「モテそう」は実際には「モテ」にはつながらないという事であるし、さらに言うならば「モテ」は「愛」ではないという事である。少なくともぼくはそう思った。

「モテ」は「期待」でしかなく、「愛」は「信頼」なのだと思う。
「期待」がいつの間にか「信頼」に変わるまでの期間は、小手先のテクニックで誤魔化しきれるほど短くはない。

信頼さえ得てしまえば、可愛く食べようが、ぶさいくに食べようが可愛いものである。

ただし、20代のぼくはモテで良かった。ただ不特定多数とやりたいだけなら信頼は邪魔だし、モテが一番良い。ちなみに今でもたまにモテたいと思う時がある。